議題:酔いどれロックの罪深さについて
しんでぃ、深酒のせいでもつれる舌で名を呼ばれる――酒臭い。龍馬は出身地の関係もあるのか酒に強く、<泣き上戸>という酒癖が出るまでには徳利ならば五本、酒瓶なら二本必要になる。しかしそれは酒癖が出るまでであってここまで泥酔するとなるとその倍は必要なのではないだろうか。大凡その通りの数だけ空き瓶がそこかしこに転がされている。自ら腕を絡め高杉の肩口に頭を預ける様子からも、今の龍馬は疑いようもなく泥酔していた。
ふいに腰に回されていた龍馬の手が離れ、高杉の顔を引き寄せるように襟を掴んだ。力の加減が上手くできないのか、襟が後ろ首に食い込んで思わずされるがままに顔を近づけてしまった。
涙のせいでつるりと潤んだ龍馬の瞳と視線がかち合う、酔いどれているにしてはえらく神妙な面持ちであった。こちらを見つめる眼差しから接吻される――と思い顔を背けようとしたところで、まア酔っ払いのすることなのだから好きにさせてやればいいじゃないか、それにかこつけてしまえばいい。などと若干の下心を覗かせた隙に口唇が接触する。......感触が可笑しい、口唇同士が互いに押しつぶしあう感覚ではない。上唇はなんともないのに下唇だけがぐにゅりと強く"食まれて"いる。右手からつい先程酒を注いだばかりの猪口が転がり落ちた。
――喰われる。
動物的な本能からくる恐怖感と酔いによる高揚感が混じったものにざわざわと背を撫でられ膚が粟立つ。ぬるり、と龍馬の舌が高杉の上唇をなぞった。
「はぁっ......そんな固まられるとやりづらいぜよ......」......馬鹿にバカにされた。
シンディが乗り気にならんのもわしのせいかの。自身の唾液にまみれた口元を親指で拭いながら龍馬は言う。ただの息継ぎだったのかもしれないが、高杉にはそれが鼻で笑われたように聞こえた。もちろん龍馬にそんな意図はなかったことはわかる。ひとえに己の経験不足からくる自信のなさのせいだ。龍馬自身の口から語られたことはないため全ては憶測でしかないが、こいつは雄(おとこ)も雌(おんな)も知っている。閨での振る舞いは無識の高杉にもそれを教えるには十分だった。高杉を食わんばかりの勢いで口腔を舐る龍馬に、腹の底からじわりと滲みだしてくる暴力的な衝動に襲われる。高杉の体という体、神経すべてを焼き切るような凌辱であった。――いや、文字通り食われているのか――。高杉晋作という人間の人生そのものを、こいつは今までも同じようにして誰かの人生を食んで生きてきたに違いない。
「......シンディ、折角わしと二人きりで飲んどるっちゅうのに考え事なんぞせんでくれ」「うるせェ酔っ払い、その辺にしとけ」
肩を押して龍馬を引きはがすと、高杉は先程落とした猪口を拾い上げ、もう酒盛りは終わりだと言うように立ち上がる素振りを見せる。龍馬はそれをさして気にする様子もなく畳の上にコロリと仰向けに寝転がると酒瓶の残りを確認しながら、いけずじゃの。と漏らした。
「シンディ~、酒のうなったき持ってきてくれんか?」「ハァ!? 嫌に決まってんだろ!」
オレ様の酒まで飲んでおいてまだ飲む気かと吠えると、龍馬はその大声にビクリと身を震わせ「うう、シンディが冷たいのもわしのせいじゃ~」と泣きだした。いやその通りお前のせいだろうが、と高杉は内心悪たれる。自分も酔いどれていればべそをかく龍馬の姿を肴に馬鹿にして笑っていただろうが、素面の自分としてはどうにも神経を逆撫でされるばかりでおちょくられているようにしか思えない。
酔っ払いを相手にするだけ時間の無駄だ、自室に戻って飲み直して寝てしまうのが一番いいのだろうが高杉は部屋から動かない。何故という問いへの応えは簡単で、肴にする程度には龍馬の泣いている姿が好きなのだ。普段飲んでいるときは自分も酔いで記憶を飛ばしてしまうことが間々あり、今日は素面で、加えて周囲も気にせず龍馬の泣き顔を観察できる絶好の機会だった。
「シンディがおらんなってしもうた......。捨てられてしもうたんじゃ......わしなんかがおったって迷惑をかけるだけじゃ、死んでしもうたほうええんじゃ。それがみんなのためなんじゃ......」距離を置いて静観していると、龍馬は高杉の姿を探すのをやめて本格的に泣き始めた。拾った猪口の底に少しだけ残っていた酒を啜る、当然こんな残りかすのような量では酔えるわけがない。顔を伏せ、まるで土下座のような姿勢でしゃくりあげる龍馬をよそに高杉は部屋を片付け始めた。
散らかしたままにしておいてもそれを見た桂は片付けようとしてくれるだろうが、桂は高杉の恩人でもある人だ、そんなことはさせられない。それに高杉以外の者は家事の類は不得手でどんな尻拭いを押し付けられるか想像に易いが、特に龍馬は駄目だ。バイト中の姿を見ていればそんなことを任せられるわけがない。洗った皿より割った皿の枚数が多いくらいだというのに。瓶を割られて畳の上を歩けなくされては高杉の仕事が増えるだけである。
片し終わった高杉が部屋に戻ると、龍馬は土下座の姿勢のまま大人しくなっていた。すすり泣きももう聞こえない。
「オイ、こんなとこで寝んじゃねぇ」龍馬の後頭部を叩くが動かない。高杉は両手を顔と腕の隙間に刺しこむと、頭を持ち上げ顔色を伺った。焦点のぼやけた目と視線が合い心臓が跳ねる。起きていたのか、その虚ろ気な瞳に映る自分の姿を視認し動揺する。しかし龍馬は気をどこにやってしまったのか変わらず反応がない。半開きの口からは涎が垂れている。その様子からやっぱり寝てたんじゃねぇかと安堵すると、龍馬の袂が湿っているのに気付く。......誰が洗濯すると思っているのか、それよりも、片付けを人に任せて自分は寝ているなどと図々しいにも程がある。我ながら酔っ払い相手に栓無いことを言っている自覚あるのだが、この呆けた面を見ているとそんな気持ちが堰を切ったように湧いてくる。あくまで表向きの、表面上の高杉の思考はそうであったが、裏ではその酒によって赤らんだ涙が乾いたあとの残る頬・だらしなく開いた口から漏れる涎・生気のない目をした顔の龍馬に褥での達したあとの姿を想起していた。その罪悪感すらも悦楽としてしまう、それは紛れもなく高杉の悪徳だった。
「――あ、シンディじゃ......」高杉がそんな濁流に飲まれていることは知らず目を覚ました龍馬は、おらんなってしもうたから心配しとったぜよ、戻ってきてくれてよかった。と無防備に泣きながら抱き着いてくるものだから、そんな不埒なことを描いていた高杉の思考は一層乱れた。涙と鼻水と涎でべたべたになった顔を襟に擦り付けてくるのを止めることも叱ることもできず、高杉は両手を浮かせたまま龍馬の好きにさせる他なかった。半端な体制で寝て、酒が落ち着くどころか頭まで回ってしまったのだろうか、一度落ちるまでは泣きながらも平素のようなふてぶてしい言葉も言えていたというのに。――シンディ、好きじゃ、愛しとる、こんなわしから言われても嬉しくもなかろうが、それでも好きじゃ、なあシンディ、わしなんかですまん――龍馬は高杉の手に余る。むしろ自分が聞きたいのだ、なぜ自分を選んだのか。こんなに何度も好きだと愛してると言われても、それを手放しで信じ受け入れてやれない自分の器量の狭さが憎くて仕方がない。
......龍馬は誰にでも言うからだ。自身の感情に素直なだけで、――その情愛がなんであれ高杉がそれを大人しく受容できないだけで――。たまたま近くにいたのが自分であっただけなのではと今でも思う。我ながら女々しくて情けない限りだ。(こんなのロックじゃねぇ)そう自らを叱責するが考えは改まらない。......けれど、それに応えないのはもっとロックではない。龍馬に好意を示されたからと応えるのは現金なようで、その好意を一分も返してやれないのを龍馬に申し訳ない気持ちもあったが、高杉はそう確信すると龍馬の両頬を手のひらで挟み唇を食んだ。
高杉は不誠実を嫌う。それは他人であっても自身であってもそうだが、この場においては高杉自身が一番不誠実だった。それを理解してなお高杉は龍馬に腹を見せていない。龍馬の剥き出しの感情に戸惑うばかりでしかない。
口づけに応えながらしんでぃ、しんでぃと名を呼ぶ龍馬に高杉の思議とは裏腹に性感は否応なく高まる。何より龍馬が泥酔したままというのがいい。泣き顔が間近に見れる、啼き顔も見れる。感極まるとそれが喜怒哀楽どの感情でもすぐ泣いてしまう龍馬の涙腺は、酒の助力もあって決壊したかのようにぼたぼた涙を零している。龍馬は泥酔しても高杉と違って記憶を飛ばす酔い方はしない、酔っても理性が緩くなるだけで自身の本意ではない行為もしない。それを知っているから正気を失っている龍馬を手籠めにしているわけではないという安心感があった。だからこうして高杉は龍馬に触れることが許されている。
口づけの合間に浅く息を吸い吐きしてはまた唇を合わす。互いの熱い息が顔に触れた。着物の合わせから手を這わす。残念ながら今の高杉に自身の服を脱いでいるような余裕はない、指先で直に体温を感じられないのを歯がゆく思いながらも龍馬の脇腹の骨を撫ぜる。その度にひくりと震える龍馬の瞼がいじらしかった。
「ん、っふ......」いまだ口は塞がれているために、喘ぐ息だけが口端から漏れた。苦しげなその吐息が空へ散るのが惜しくて、高杉はより深く舌を龍馬の口内へ挿し込む。互いの唾液を啜りあいながら、そうして同じ体温を感じている。龍馬の口内は熱く心地が良かった。いつまでもこうしていたいなどと、夢の中のような阿呆な考えを真面目にしてしまう程度には離れがたいものだった。溺れきっていると言って相違ない。――けれど息は続かない。酸素を求めて呼吸に喘ぎながら口を離す。胸を上下させ大きく開けた口で呼吸を整える龍馬と同じくして高杉も上がった息を戻そうと躍起になる。余裕があるように見せたいのだ、それは高杉の男としての矜持であったが、ふふ、シンディの顔真っ赤じゃの。と笑う龍馬の声になけなしの矜持は儚くも砕けた。
はややけくそで龍馬の愛撫を続けようとするも、それも止められる。いやじゃ。とだけ端的に拒絶されてはどうしようもない。この流れで何を言っているのか理解できない高杉には龍馬の薄ら笑いがいとわしかった。
龍馬は高杉の袖をくいと引く。なにをしているのかと龍馬の顔を眺めているともう二回引かれた。ニコリと笑むも何も言わない。そのまま呆けていると、なんじゃあ、シンディはまっこと鈍い男ぜよ。となじられた。オレ様がなにをしたと言うのか――なにもしてないからいけないのだろうか?
「......いや、わしの伝え方が悪いんじゃな。わしのせいじゃ」「あ?」
そう言うと龍馬の両目はまた涙を零した。高杉は龍馬の泣き顔は好きであったが、ただただ静かに泣かれてはからかうことも出来ず、そう泣くなとその頬を拭ってやる程度のことしかできなかった。龍馬は高杉の手に犬がじゃれるかのように頬を擦り付け、指先をその口へ招いた。手袋越しに犬歯が緩く突き立てられる。その行動に驚き、志士の手をなんだと思っていると叱責しそうになったが龍馬の蕩けた目元と、歯が食い込む力の弱さからどうも傷つけるのが目的ではないと気づくと、自ら雰囲気を壊すなど朴念仁が過ぎると猛省した。......その反省を今度生かしたいのならば高杉は自身の高慢さを直さねばならない。到底無理そうだった。
「きもの、ぬがしてくれんか」そう言うと龍馬は肘に力を入れ上体を起こした。高杉は押し迫る龍馬の顔に怖気づきつい体を引いてしまう。逃げるなと言うかのように肩を掴まれる。肩に置かれた龍馬の手が高杉の体をなぞり落ちていく。腹の辺りまでくると一度手を離して高杉のゴーグルを頭から引き抜くと、その次はスカーフを掴みぐっと力を入れて一気に引き剥がされる。一瞬首が締まった。そんな高杉の顔を見て龍馬はけらけらと笑うものだから、少し腹が立って帯も解かないまま龍馬の着物をその肩から落とした。シンディ、指。そう言うと龍馬は高杉の袂に手を入れると手袋を脱がした。手袋越しではなく、直接触れる熱が気持ちいい。自分の熱を感じてほしい、そしてその熱をもっと感じたい。指先で脇腹をくすぐるとわひゃっという色気の乏しい悲鳴が上がる。そのままつうっと上に撫で上げると龍馬は瞼を閉じてその感覚を享受する。龍馬の感じ入った表情に高杉自身も昂ぶるのを感じた。
「シンディの好きにしてくれてええ」ふっと息をつくと龍馬はそう言った。好きにされたい、なにもわからなくなるくらい、わやくちゃにしてほしい。
「ああ、喜べ。お前のしたいようにしてやる」そう高杉が答えると、やっぱりシンディは優しいぜよと龍馬は笑うのだった。
[了]